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    私の大事なルーツ・本

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      憤ったというか、がっかりしたというか、
      悲しいというか、残念に思った事がありました。


      とある小説が欲しくて本屋さんへ。
      大きくもなく小さくもない、まあいわゆる普通の本屋さん。
      そこで、目当ての“文芸書”のコーナーへ。
      つつーと棚を見て…『あれ?』と思った私。
      裏側の棚を見て、周りの棚を見て…思わず呟いた。

      『…これだけ?』

      そう、少ない。少なすぎるんだ、文芸書が。
      新しい本故、まだ文庫化されていないが念のために文庫のコーナーも廻る。
      …こっちも少ない…。


      本屋において“小説”の占める割合は、私が現役本屋だった頃から比べても格段に減っている気がする。
      円グラフで表せば、薄っぺらなケーキみたいになってしまうだろう。
      こんなんじゃお腹も気持ちも満足しないぞ!というくらいの。

      本当に本って、小説って、読まれなくなっちゃったんだなぁ…。

      そもそも、古本屋で長く勤めていた私が言える事ではない。
      書籍業界の流通や立場に大打撃を与えたのが、我ら古書業界。
      しかしその市場はあまり未来があるものでもなく…
      こともあろうに大元の書籍業界を巻き込んで、火種を小さくしてしまった。
      と、古本屋から普通の本屋(普通でもないが)に勤めていた私は思っている。

      そもそも…日本とドイツ(また共通点が!)にだけ存在する“再販防止制度”が
      本の立場を守りもし、危うくもしている…ハズ。
      日本は、例外を除いて本はディスカウントできないのです。
      以前アメリカに行った時、本屋にでかでかと“SALE”と書かれていて
      カルチャーショックを受けた事がありました。

      それと同じなのが、音楽。
      CDは“時限再販制度”といって、一定の期間ディスカウントが出来ません。
      しかし、こちらもレンタルやリサイクルショップの勢いに押されてしまった。
      私が音楽の専門学校に通っていた十数年前、すでに業界は衰退が始まっていて、
      当時の音楽業界の売上は、豆腐業界の売上と同じだと言われた事がある。
      …豆腐がどのくらい売れていたかは知りませんが、
      単価を比べればなんとなく低さがわかる気がする。

      なんでも過保護はいけないんですね…。


      今は、ハードを除いたソフトのみが売買される時代。
      とはいえ、なんだかそれは味気ないと思ってしまうのは、私が古いせいでしょうか?

      小説も音楽も、人間が人間であるゆえに作り出せるし楽しめるもの。
      “内容”という“ソフト”は、人間でいえば“魂”。
      まさに作り手のそれだろう。

      しかし…ハードがあってこそのそれだと思う。
      いわゆる、“姿”。
      姿が見えないものは…なかなか存在が誇示しにくいのではないだろうか?
      ハードの衰退に比例して、中身の濃いソフトが衰退している気がする。


      器っていうものは大事なんだな、と、本屋さんのほとんどのスペースを占める
      “五年後には読まれないであろう本”たちを見て、思った。
      ソフトもハードも、使い捨てできないものを増やす事が、本当のエコロジーなのではないのか?

      『嘘』

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        真田家は、謀略家。

        謀略家というと、嘘つきのイメージになってしまうらしい。
        確かに
        『(上田)城を綺麗にしますんで、降伏開城まで三日下さい』
        と言っておきながら、三日後に
        『戦支度は整った。どうぞ攻めてこい。』
        と言ってしまう、2代目昌幸さまのイメージが強いからだろう。
        実際、沼田城を取った時なんかも相当なものだけれども、
        その後の身の振り方のせいなのか、いわゆる“謀将”と
        呼ばれる他の武将よりも、好意的な目で見られていると思う。
        あ。
        この意見は…相当に私の贔屓目が入っている事を認めておきます…。



        で、本題。

        そう、“嘘”というものは難しい。

        嘘をつかずに生きていく事なんぞ、出来るものではない。
        とりあえず私には無理。
        特に、自分に嘘はつけないタイプ。
        人に嘘はついても、自分に嘘がつけない。なんて我儘なんだ…。


        “嘘”にはいくつかの種類があって、“はったり”だったり“ごまかし”だったり
        “秘密”だったり…『真実を偽る』事を“嘘”と呼ぶなら、種類は無数。
        でも、中には“優しい嘘”も存在する。
        真実が鋭利な刃物のような場合、相手のキャパシティに応じてそれも必要。
        この“嘘”というものにはこういった多面性があるものの、
        まぁ…イメージは良いものではない。 悪しきものとされている。

        『嘘つき!』と罵られるシチュエーションとして思い浮かぶのは、
        往々にして恋愛においてのシーン。
        心変わりをした男性に対して、
        『愛してるって言ってたのに…嘘つき!』とか、
        デートの予定が仕事でダメになった際に、
        『会おうって言ったのに…嘘つき!』とか。
        私ですか?私は言った事がありませなんだ。(特に最近は)

        何故なら、『愛してる』と言ってくれた言葉や『会おう』と言ってくれた言葉は、
        “その時の真実”だと思う事にしているから。

        人間、いくらでも状況は変わる。
        流れというものを塞き止められなかった自分を責めるべき。
        それが嫌なら、自分が努力を怠るな。
        と、自分に言い聞かせている。

        感情は水のように、液体にも気体にも固体にも姿を変えるもの。
        氷だったものが水蒸気になって飛んでいってしまったとて、どうして文句がいえよう。
        感情が変わらなければ―私の理論で言えば―歴史は動かない。
        進化も退化もない。
        そんなの、つまらないではないか―。

        でも、ひとつだけ間違ってはいけないのは、起きた変化に対して当の本人が
        『しょうがないよな』とか『わかってくれるだろ』とタカをくくってはいけない。
        義が無ければ、誠も嘘へと転ずる場合がある。
        そう。
        “武士の義に欠けたるは、打ちもの(刀)の刃が欠けたるが如く”。

        昌幸さまがあまり悪しき様に言われないのは、
        最終的に義を重んじていたからかもしれない。


        だから…
        真田家は、謀略家ではなく、“智略家”と言って欲しい。

        (結局、コレ↑が言いたかったのでした/笑)

        私が着物を着る理由

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          いつからか、着物姿が定着してしまった六龍堂。
          いや、私という人間に着物のイメージがついたのは、もっと前からだろう。

          私が“時代屋の女将”と呼ばれていた時だ。

          歴史時代書房 時代屋の女性制服は、着物。
          制服用の着替えやすいものではあるけれども、見た目は立派なものだ。
          これも私が選んだとあって、とても愛着があります。
          特に当時私が着ていたのは、“女将専用色”である、黒。帯は朱。
          代々の女将に受け継いでいこうと思って、女将だけ専用色にした。


          しかし、そもそも着物は、幼い頃から私には身近なものでした。

          母も祖母も日本舞踊をやっていたので、着物を沢山持っていた。
          持っていると、やはり節目には着物…となる。
          今でも色々な場面の写真で、母の着物姿を見ます。
          私も小さい頃は、お正月なんかにはよく着させられていたものです。

          だからなのか…ある時ふと
          『着物を自分で着られるようになりたい』
          と思ったのです。

          しかし…慣れないと結構難しいもの…。
          着物慣れしている友人に教えてもらい、着物屋さんで色々聞き、
          本を読んで、自分なりに色々試行錯誤して…やっと現在に至ります。

          私が目指す着物スタイルは、あくまでも“普段着”。
          なので、汚したらいけないような高級品は着ません。
          さり気なく、着物。
          というのを目指しています。

          というのも、私のこのスタイルも歴史布教の一環。

          伝統ある、日本の民族衣装である着物。
          私が着ているのを見て、
          『いいな』 『着てみたいな』
          と思ってくれればしめたもの。
          そこが入口となって、日本の伝統に興味をもってもらいたい…
          と思っているワケなのです。
          着物に付随する伝統文化は、10や20ではききませんからね。

          それに、着物を着ていると、姿勢が良くなる。
          猫背だと着崩れてしまうのだ。
          故に、自然と動作が大人しく、美しくなる。
          女性らしい動きというものが身につく…というのは、大発見(笑)。
          もういい大人なので、半ば矯正の気持ちもあって着ています。

          更に、着物姿だと見知らぬ人に話しかけてもらえる機会にも恵まれる。
          大抵褒めて頂けるので…良い事ずくめだ(笑)。

          なので、なるべく知らない土地に行く時は着物で行く。
          初めて会う人が居る時も、できるだけ着物。
          勝負服も…着物だ(笑)。


          しかし…良い事ずくめの着物にも、弱点がある。

          寒くて、暑い。

          これを解決するには、まだまだ勉強と修行が必要なのだが…。

          真田幸村 という『男』

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            もう かれこれどのくらいの間好きなのか、忘れてしまった。

            それは『そのくらい長い期間好きでいた』 というわけではなくて
            好きでいる期間が 長いのか短いのか分からないくらい のめり込み、
            時間の感覚が 分からなくなっているせいだと思う。

            それに、その人はこの時間に生きていない。

            一緒に時を重ねているわけではなく、その人の生きた跡を
            追いながらの恋なので、時間軸が多分おかしくなっているのだ。


            映画『ネバーエンディングストーリー』の主人公のように、
            本の世界にのめり込みすぎてその世界を体験してしまう というくらいに
            本の世界と共に育ってきた人間なだけに、想像というか“妄想力”が強い私。
            本の世界の人物に恋をしたことも、無い事は無い。


            あの人との出会いも、始めはフィクションの世界だった。
            存在は知っていたけれども、世の中に溢れる『彼』の姿には
            さほどの興味も覚えなかった。
            私がその本を手に取ったのも、『彼』に興味があったわけではない。
            単に作者が好きだったのだ。

            池波正太郎著『真田太平記』


            そう、私の『彼』とは 真田左衛門佐信繁。 通称 幸村。

            『日ノ本一の兵(つわもの)』と言われる、武将だ。

            彼が最初で最後の活躍をした“大阪の陣”は、1614〜1615年。
            時はすでに、“江戸時代”に入って12年。
            いわゆる、彼は『戦国武将』では、無い。
            けれども、私はずっとこう思っている。

            『最後の戦国武将』 と。

            彼の死で、“戦国”という時代は終焉を迎えたと思っている。
            鎌倉時代でも、室町時代でも、安土桃山時代でもない、
            『戦国時代』の終焉は、彼の死が その印だと思う。

            なので、私の『戦国時代』は1615年まで。


            ある日、本屋の片隅で『彼』に出会った私は、大いにこの人生を変えることになる。

            この大事が、恋でなかったら 何なのだろう。

            “六龍堂”の意味

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              『六道を統べる龍となれ』

              これが、六龍堂の意味合いです。


              私が好きなものはたくさんあれど、強いて言うならこの2つ。というのが
              『真田幸村さま』と『龍』です。
              幸村さまは、生涯の恋人。龍は、私自身のアイコン。


              幸村さまの掲げた旗印、真田の精神である六連銭。
              一般的に“三途の川の渡し賃”と言われる六連銭が、そもそも何故“六”なのか。
              それは、仏教の“六道”という世界観よりきている風習です。
              仏教では、この世は六つの世界に分かれているといわれています。
              『餓鬼道』『修羅道』『天上道』『地獄道』『畜生道』そして『人間道』。
              この六つの世界には、それぞれ地蔵菩薩が降りたって人を救います。
              (厳密には“救う”のではないんですが)
              だからほら、よく道に並んでいるお地蔵さまは六体なんです。
              そのお地蔵さま一体に対して一文のお賽銭を捧げるから、六文。
              どの道に転生しても、お願いしますね。という意味で。
              なので、亡くなった方のお棺にも入れていたものが、
              三途の川の渡し賃になったのでしょう。

              長くなりましたが…
              そういった訳で、“六道”というものは私にとって、
              見えるもの見えざるものひっくるめて世界全てを表します。


              そして、龍。
              龍は自分自身であると同時に、日本というこの国のことでもあります。
              日本の形は、天駆ける龍の形。
              こよなく愛する私の祖国日本の歴史を、この地に生きた人たちを、
              もっと多くの人達に知って欲しい。

              そして、自分という龍。
              龍は権力の象徴。
              だけれども、真に力を持つ者というのは、決して己の為に力を使わない。
              龍はその強大な力を己の為ではなく、守るものの為に使う。
              私も、自分の為ではなく、自分の好きなものや守りたいものの為に、働きたい。
              だから、私が使う文字は『竜』でなくて、『龍』。
              『竜』は一体。『龍』は1対を表す。
              己ではなく、誰かの為に。その精神が、この文字です。


              『六道を統べる龍となれ』は、日本という国の歴史へのエールであり、
              私自身へのハッパかけでもあります。
              “やるからには、半端はしない”が信条。

              六道を統べられるくらいの力をつけて、真に信じる人の力になりたい。
              龍の力は、己の為に使われるものではないのだから。

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              六龍堂

              歴史プロデューサー六龍堂
              早川知佐のブログです。

              歴史に関する事柄
              万、軍師承ります
              mail@rokuryudo.jp

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